8月15日

戦争が終わった日。

 

色々な諫めとして、
好戦的な為政者へのブレーキとして、
「敗戦記念日」と称するべきだ。

という意見・考え方があるようです。それは理解できます。

 

でも、個人的に「終戦記念日」いや「終戦日」でいいと思っています。
 
勝ち負けに意味を持たせるべきではない。

 

単に、「戦争が終わった日」なのだ。

 
 

・・・だからこそ
「靖国神社公式参拝」には異をとなえます。

 
「お国のために死んだ魂」を慰霊するために靖国神社に参拝といいますが、

 

わざわざ「靖国神社参拝」するという行動には、追悼とは別な、政治的なアピールがどうしても含まれます。

 
その政治的なアピールに関しては、ここでは深入りしません。

近隣諸国への憎悪を煽って得するのは誰なんでしょうね?とだけ言っておきます。

 

「靖国神社参拝」への批判には「じゃあお国のために死んだ人の慰霊を否定するのか」という返しが来がちですが、

戦没者慰霊なら、千鳥ケ淵戦没者墓苑に参拝すれば良い話で、

なんなら「自宅で瞑想」した方が、よっぽど追悼の誠は純粋だと思います。

(そもそも、戦争の犠牲になったのは、そして戦後復興の礎となったのは、軍人だけではありません。)

 
はっきり言いますが、戦争は悪であり、外交の失敗です。

「戦争の崇高な目的」が視座の高い話という体で強弁されたり、戦争を通じた国際戦略が美化されたりする考え方には与しません。

それは武器を売って儲ける存在の厚化粧です。

 
「靖国神社参拝」に関するやりとりは、

「一般的な美徳」と「為政者の本音」をセットにする「教育勅語」の論理のからくりと同じで、それは現在の「ネトウヨ」の詭弁にも通じます。

 

「教育勅語」は、親孝行等々の、それはもっともな道徳論が累々と述べられたあと、最後に「いざとなったらお国のために命を捧げよ」と帰結します。

「一般的な道徳」と「お国のために云々」とがセットになっているので「教育勅語」を否定すると、「親孝行等々を否定するなどけしからん!」となります。

そのねじれが問題なのです。

 
ワイドショーのノリで政治を語る人達って、往々にして正論の中に暴論を織り交ぜて、もっともらしくしてますね。

そして、その論法の源流は「論語」にあるという考え方もあります。

 
このあたりは、改めて別の項目で、掘り下げたいと思います。