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戦争が終わった日。
色々な諫めとして、
好戦的な為政者へのブレーキとして、
「敗戦記念日」と称するべきだ。
という意見・考え方があるようです。それは理解できます。
でも、個人的に「終戦記念日」いや「終戦日」でいいと思っています。
勝ち負けに意味を持たせるべきではない。
単に、「戦争が終わった日」なのだ。
・・・だからこそ
「靖国神社公式参拝」には異をとなえます。
「お国のために死んだ魂」を慰霊するために靖国神社に参拝といいますが、
わざわざ「靖国神社参拝」するという行動には、追悼とは別な、政治的なアピールがどうしても含まれます。
その政治的なアピールに関しては、ここでは深入りしません。
近隣諸国への憎悪を煽って得するのは誰なんでしょうね?とだけ言っておきます。
「靖国神社参拝」への批判には「じゃあお国のために死んだ人の慰霊を否定するのか」という返しが来がちですが、
戦没者慰霊なら、千鳥ケ淵戦没者墓苑に参拝すれば良い話で、
なんなら「自宅で瞑想」した方が、よっぽど追悼の誠は純粋だと思います。
(そもそも、戦争の犠牲になったのは、そして戦後復興の礎となったのは、軍人だけではありません。)
はっきり言いますが、戦争は悪であり、外交の失敗です。
「戦争の崇高な目的」が視座の高い話という体で強弁されたり、戦争を通じた国際戦略が美化されたりする考え方には与しません。
それは武器を売って儲ける存在の厚化粧です。
「靖国神社参拝」に関するやりとりは、
「一般的な美徳」と「為政者の本音」をセットにする「教育勅語」の論理のからくりと同じで、それは現在の「ネトウヨ」の詭弁にも通じます。
「教育勅語」は、親孝行等々の、それはもっともな道徳論が累々と述べられたあと、最後に「いざとなったらお国のために命を捧げよ」と帰結します。
「一般的な道徳」と「お国のために云々」とがセットになっているので「教育勅語」を否定すると、「親孝行等々を否定するなどけしからん!」となります。
そのねじれが問題なのです。
ワイドショーのノリで政治を語る人達って、往々にして正論の中に暴論を織り交ぜて、もっともらしくしてますね。
そして、その論法の源流は「論語」にあるという考え方もあります。
このあたりは、改めて別の項目で、掘り下げたいと思います。



